気づき・学び・神経の繋がり

数学、物理、宇宙、テレビ番組、社会、政治、経済、歴史、人物、教育、人工知能、四季、言語、宗教、差別、スポーツ、音楽、アニメなどについて

つかの間の主役     2017/5/20

アメリカの人口のうち、白人以外の割合は、20世紀初頭から増加傾向にある。20、21世紀を歴史的に見ると、「南北アメリカ大陸に住む人々は、変動し続け、ヨーロッパ大陸からの人種が支配していた時もあった」ということになるかもしれない。


多摩川レベルの川の土手を見ていると、単一植物が優勢を誇る状態が、植物を変えながら続いている。二十日大根、タンポポ、バッタが好きそうなイネ科植物、ススキなどだ。このような同じ土地の主役が入れ替わる事象の一部として、今のアメリカ政治・経済を見取る姿勢は、正しそうである。


そこで、日本は、アメリカに近寄る政治から卒業する準備をしていた方が良い。浮き沈みを何度も繰り返しながら存続してきた国と同様に付き合うことはしない方が良い。日本は、親交国を変えてきた。中国が最も長いが、オランダやドイツなどとも特別なかかわりがあった。アメリカとは、150年程度の付き合いだが、300年続くだろうか。

早期退場という発想   2017/05/06

 ちゃんと濃い人生を送っていたら、人生に見合う十分な幸福感を得るのに100年もかからない。およそ30±10年で十分である。達成感のある仕事をすること、行きたい所に行くこと、食べたいものを食べること、ほしいものを持つこと、感動的なコミュニケーションをすること、宇宙・自然・人間についての理解等は30年前後で達成できる。


 この発想は、東京ディズニーランド等のアミューズメントパークでは多くの人々が実施している。つまり、一日券等を持ち、まだパーク内にいられるが、制限時間前に退場する人は多い。これは、混雑を避けることや退場後の予定の為等の理由もあるが、もう十分満足したから早期退場するという場合もある。しかし、これを人生において行うことは、現在の日本では、大きな声で語られない。加藤和彦や藤圭子のように、ある程度の山に登ったら、自分から降りる人生は、悲しい自殺ではない。


 目の前に食べ物がふんだんにある時、これ以上食べても快が得られない摂食はしないことと同様に、もう十分満足した人生には、余生は必要ない。そして、重要なことは、その「余生」とは、人により開始年齢が大きく異なり、65歳や80歳等の定数ではないということである。


 以上のような判断に基づく自殺は、これ以上生きたくても生きられない状況の人には、贅沢すぎ、不快なものである。自分が死ぬことにより悲しむ人や困る人がいる等の周りの人々や社会への影響を考えるべきであるという意見は、小学生が道徳の授業で言うような普及しきった考え方である。仏教の見地からは、引き継がれた命はあなた自身だけのものではなく、個人的な快不快や欲求のみに基づいて命を扱ってはならないという考え方が示されている。これらのような、一般的な死んではならない理由は、自分の生について、長年に渡り真剣に考え、歴史上の人物を含む多くの人々の人生について考察し、生き甲斐や生きることについての本を読み、他の生物の生と死の法則について認識を深めた場合、説得力をもたない。上で述べたように、満腹なのにこれ以上食べろというのは、義務とか責務の類であり、楽しくもなんともない。散々贅沢をして、目標を達成してきたら、早期退場する選択は、ごく自然なことである。土星探査機のカッシーニは2017年9月にミッションを終え、土星の大気圏に突入し、燃えつきる。これでよい。


 この考え方は、労働者、消費者、納税者を確保するため、政治、教育、マスコミでは推奨されないが、選択的自死という考えは存在しないものとし、議論の場に持ち出さないような『生き方の画一化』は否定したい。私がしたいことは、自殺ではなく多様化や自由の普及活動である。


 戦争期間の人々、過酷な納税率の時代の人々、産業革命以前の消費エネルギーの少ない時代の人々、移動や職業選択が制限されていた人々、宗教や人種、民族や性別などにより差別されている人々、卵から成体まで生き延びる確率が現在の日本人に比べて極めて低い生物の人生、ネットによる表現の場がない時代の人々、自然に対する抵抗力が弱い土木技術と低い医療レベルの時代の人々等に比べれば、現在の日本人は圧倒的に幸福感を得やすい。欲しいものを家にいながら注文し配送させることなどは、昔の貴族のようである。こういった社会で一定期間生きれば、心肺に異常がなくても、早めに生きるのをやめる選択をする人もいて、そういった人々の考えはバカなものではなく、一種、豊かさの極みであるととらえられるような、真の民主主義、多様性の尊重が実現してほしい。他と異なっても、よく考えて見出した自分の生き方を、各自が公言できる社会にしたい。

男女不平等    2017/02/16・04/16

●0216
 収入のない男を支える女を「貢ぐ女」というが、収入のない女を支える男を「貢ぐ男」とは言わない。「貢ぐ男」とは銀座のクラブの女のもとに通い詰めるような男のことを表す。男女平等を望む女は、まず、働かない男と専業主婦を同等に見なせなければならない。働かない男を蔑み、収入の多い男と結婚することを喜んでいる限り、女は、男と対等に見なされない。旦那が失業して離婚する女はいるが、妻が失業して離婚する男はいない。男は、結婚するときに相手の経済力を当てにしない。


 性別による収入に差のない仕事の創造とそれを支える政治・法律・文化や、物・サービスがお金によって配分されない資本主義以外の体制、性別が自由に替えられる科学技術などが成り立てば、男女平等になる。いや、性別が無くなるか、または、性別が2つではなくなる。


 男の経済力に屈しない女は、大企業、不良、戦勝国、上司に諂う(へつらう)賎しい男よりも仏性が良い。また、そういう女は、年齢を気にしない。若さを求める男に媚びる必要がない。自分の価値を、男に求められる量に置かない。自律する。エディットピアフ、家なき子、ココシャネル、柳原白蓮らも同様の高潔さがある。
(『放浪記』金を持たない男を愛す林芙美子の生き様より)



●0416
 昔、吉原等では、お気に入りの花魁を廓から出し、生活の面倒を見る「身請け」という文化があった。これは、正妻にする場合もあるが、妾とする場合もあった。


 現代では、男性が女性と遊ぶ庶民的な場としてキャバクラ等があるが、この代わりに、店を通さずに、また、場所や行動の制限を排除して、個別的な契約を結ぶ「パパ活」が普及しだした。これは、行動のレベルに応じて契約を結ぶものであるから、援助交際とは異なる。しかし、男のお金と女の華が交換される点で、遊女の身請けと変わらない。これは、言い方をさらに強めると、部分的人身売買と表せる。ここで、人生の一部の時間を提供することによって金銭を得ることを指して部分的人身売買と表現しているから、全ての労働者がこの概念にあてはまるが、「パパ活」は、媚びを売る自分に自尊心が下がるなど、短時間で金銭を手に入れられる分、失うものも多い。同じ傾向の立場には、地下アイドルなどもあるが、悲哀度が違う。


 日本は、確実に、まだ男女平等でない。性別と年齢による収入格差が大きいため、パパ活のような人間関係が成立している。小学生の男女間に能力の優劣はないし、高校生でも各分野の優秀な生徒に男女差はない。


 年収に数百万円の余裕がある男は、「パパ活」に応じられる。サウジアラビアやキルギス等で、男が女の家へ羊等を差し出す代わりに、その女と結婚することがある。男が女に指輪を送って婚約することは、先進国でも一般的である。オスが腕力や美貌、美声、巣のデザイン等々によりメスを射止める生物は数えきれない。アフリカのいくつかの国々で、多くの妻を娶る夫は経済力のある男である。将軍や皇帝などは、もっと大勢を囲っていた。これらの例のように、男女関係と経済には、密接な関係がある。


 男女関係だけでなく、金を持つ者は、コック、画家、衣装係、運転手等々、多くの者を雇っている。男女関係のみを特別視することはないのか。すなわち、男女平等という幻想を前提としているから「パパ活」を悲しく感じるのであって、男女関係の実態は、雇用主と労働者、主人と家来なのか。結婚は、女が多額の生活費の内定を得たようなものであるから、男よりも女の喜びが大きい。離婚した時、貧困に陥りやすいのは女の方である。男が失業した時、離婚を迫る女は多い。したがって、女は、男とくっついても離れても、男の経済下にある。やはり、女と男の間には社会的な主従関係ができてしまっている。この言い方はひどいが、経済的不平等を人為的に作り出し、維持している点で、社会の実態を表している。女は男よりも能力が低いから男より経済力がもちづらいのではなく、政治や法律、教育などにより、低い地位に置かれている。これは、白人と黒人や、ドイツ人とユダヤ人などと同じ、生物的、論理的には差のない、差別である。


 以上より、パパ活は、日本に男女不平等があることを目の前につきつける具体例であって、社会問題の根本ではない。