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早期退場という発想   2017/05/06

 ちゃんと濃い人生を送っていたら、人生に見合う十分な幸福感を得るのに100年もかからない。およそ30±10年で十分である。達成感のある仕事をすること、行きたい所に行くこと、食べたいものを食べること、ほしいものを持つこと、感動的なコミュニケーションをすること、宇宙・自然・人間についての理解等は30年前後で達成できる。


 この発想は、東京ディズニーランド等のアミューズメントパークでは多くの人々が実施している。つまり、一日券等を持ち、まだパーク内にいられるが、制限時間前に退場する人は多い。これは、混雑を避けることや退場後の予定の為等の理由もあるが、もう十分満足したから早期退場するという場合もある。しかし、これを人生において行うことは、現在の日本では、大きな声で語られない。加藤和彦や藤圭子のように、ある程度の山に登ったら、自分から降りる人生は、悲しい自殺ではない。


 目の前に食べ物がふんだんにある時、これ以上食べても快が得られない摂食はしないことと同様に、もう十分満足した人生には、余生は必要ない。そして、重要なことは、その「余生」とは、人により開始年齢が大きく異なり、65歳や80歳等の定数ではないということである。


 以上のような判断に基づく自殺は、これ以上生きたくても生きられない状況の人には、贅沢すぎ、不快なものである。自分が死ぬことにより悲しむ人や困る人がいる等の周りの人々や社会への影響を考えるべきであるという意見は、小学生が道徳の授業で言うような普及しきった考え方である。仏教の見地からは、引き継がれた命はあなた自身だけのものではなく、個人的な快不快や欲求のみに基づいて命を扱ってはならないという考え方が示されている。これらのような、一般的な死んではならない理由は、自分の生について、長年に渡り真剣に考え、歴史上の人物を含む多くの人々の人生について考察し、生き甲斐や生きることについての本を読み、他の生物の生と死の法則について認識を深めた場合、説得力をもたない。上で述べたように、満腹なのにこれ以上食べろというのは、義務とか責務の類であり、楽しくもなんともない。散々贅沢をして、目標を達成してきたら、早期退場する選択は、ごく自然なことである。土星探査機のカッシーニは2017年9月にミッションを終え、土星の大気圏に突入し、燃えつきる。これでよい。


 この考え方は、労働者、消費者、納税者を確保するため、政治、教育、マスコミでは推奨されないが、選択的自死という考えは存在しないものとし、議論の場に持ち出さないような『生き方の画一化』は否定したい。私がしたいことは、自殺ではなく多様化や自由の普及活動である。


 戦争期間の人々、過酷な納税率の時代の人々、産業革命以前の消費エネルギーの少ない時代の人々、移動や職業選択が制限されていた人々、宗教や人種、民族や性別などにより差別されている人々、卵から成体まで生き延びる確率が現在の日本人に比べて極めて低い生物の人生、ネットによる表現の場がない時代の人々、自然に対する抵抗力が弱い土木技術と低い医療レベルの時代の人々等に比べれば、現在の日本人は圧倒的に幸福感を得やすい。欲しいものを家にいながら注文し配送させることなどは、昔の貴族のようである。こういった社会で一定期間生きれば、心肺に異常がなくても、早めに生きるのをやめる選択をする人もいて、そういった人々の考えはバカなものではなく、一種、豊かさの極みであるととらえられるような、真の民主主義、多様性の尊重が実現してほしい。他と異なっても、よく考えて見出した自分の生き方を、各自が公言できる社会にしたい。